読んだ本 https://dl.ndl.go.jp/pid/2567601
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匂宮
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ひかりかくれ給ひしのち。かの御影にたちつぎ給
へき人。そこらの御すえ/\゛に有がたかりけり。お(下)り
いのみかどをかけ奉らんはかたじけなし。当代の三
宮。そのおなじおとゞにておひいで給し宮のわか君
と。このふた所なん。とり/\にきよらなる御名とり
給て。げにいとなべてならぬ御ありさま共なれど。い
とまばゆききはにはおはせざるべし。たゞよのつ
ねの人ざまにめでたくあてになまめかしくおは
するをもとゝして。さる御なからひに人の思ひ聞え
たるもてなしありさまも。いにしへの御ひゞきけ
はひよりも。やゝたちまさり給へるおぼえからなん。
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かたへはこよなういつくしかりけり。紫のうへの御心
よせ。ことにはぐゝみ聞え給しゆへ。三の宮は二条院に
おはします。東宮をばさるやんごとなきものにをき
たてまつり給ふて。御かど后いみじくかなしうし
たてまつりかしづき聞えさせ給ふ宮なれば。内ず
みをさせたてまつり給へど。なを心やすき故郷
すみよくし給ふなりけり。御元服し給て兵部
卿と聞ゆ。女一宮は六条院南のまちのひんがしのた
いを。その世の御しつらひあらためずおはしまして。
あさゆふにこひしのびきこえ給ふ。二の宮もおなじお
とゞのしんでんをとき/\゛の御やすみ所にし給
て。梅つほ(壺)を御さうじ(曹司)にし給て。右のおほい殿の中の
姫君をえ奉り給へり。坊がね(東宮に就くべき候補)にていとおぼえことに
おも/\しう人がらもすくよかにものし給ひける。
おほい殿の御むすめはいとあまたものし給。大姫君
は春宮にまいり給て。又きしろふ人なきさまに
てさふらひ給ふ。そのつぎ/\なをみなついでのまゝ
にこそはと。世の人も思ひきこえ后宮ものたまはす
れど。この兵部卿宮はさしもおぼしたらず。わが御心
よりをこらざらん事などはすぎましくもおぼし
ぬべき御けしきなめり。おとゞも。なにかは(なんの)やう(様)のも
の(皆おなじように)とさのみうるはしういとしづめ給へど。又さる御け
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しきあらんをばもてなはんれてもあるまじうおもむ
けて。いといたうかしづき聞え給ふ。六の王なんそのこ
ろのすこしわれはと思ひのぼり給へるみこたち上達
部の御心つくさばひに物し給ける。さま/\゛つどひ
給へりし御かた/\゛なく/\ついにおはすべきすみかど
もに。えおの/\うつろひ給におしに。花ちる里に聞えし
はひんがしの院をぞ御そうぶん(処分)所にてわたり給
にける。入道の宮は三条の宮におはします。今后はうち
にのみさふらひ給へば院のうちさびしく人ずくなに
なりにけるを。右おとゞの人のうへにていにしへの
ためしを見きくにも。いかるかぎりのよに心をとゞめ
てつくりしめたる人の家井なごりなくうちす
てられて。世のならひもつねなくみゆるは。いと哀には
かなさしるゝを。我世にあらんかぎりだに。この院あら
さずほとりのおほちなど人かげかれはつまじうと
おぼしのたまはせて。うちとらのまちにかの一条の
宮をわたし奉らせ給て。三条殿と夜ごとに十五日づゝ
うるはしうかよひすみ給ける。二条院とてつくりみ
がき。六条院の春のおとゞとて。世にのゝしり玉のう
てなも。たゞひとりのすえのためなりけりとみえて。
明石の御かたは。あまたの宮たちの御うしろみをし
つゝあつかひ聞え給へり。おほいとのはいつかたの御
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ことをもむかしの御心をきてのまゝにあらためかはる
事なく。あまねきおや心につかうまつり給ふにも。たい
のうへのかやうにてとまり給へらましかば。いかばかり
心をつくしてつかうまつりみえ奉らまし。ついにい
さゝかもとりわきてわが子心よせとみしり給ふべき
にしもなくて。すぎ行にし事を口おしくあかず
かなしう思ひいで聞え給ふ。天のしたの人。院をこ
ひ聞えぬなく。とにかくにつけても世はたゞ火をけち
たるやうになに事もはへなきなげきをせぬお
りなかりけり。ましてとのゝうちの人々御かた/\゛
みやたちなどはさらにもきこえず。かぎりなき御
ことをはさるものにて。又かのむらさきの御ありさま
を心にしめつゝ。よろづのことにつけて思ひいで聞え
給はぬときのまなし。春のはなのさかりはげにながゝ
らぬにしも。おぼえさるものとなむ。二品の宮のわか
ぎみは。いんのきこえつけ給へりしまゝに。冷泉院の
みかどとりわきておぼしかしづき。后宮もみこたち
などおはせず心ぼそうおぼさるゝまゝに。かなしき
御うしろみにまめやかにたのみ聞え給へり。御元
服なども院にてせさせ給ふ。十四にて二月に侍従に
なり給。秋右近中将に成て御たうばりの。かゝいなどを
さへ。いづこの心もとなきにかいそぎくはへて。おとなひ
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させ給ふ。おはしますおとゞちかきたいをさうじに
しつらひなど。みづから御覧じ入て。わかき人もわらは
下づかへまで。すぐれたるをえりとゝのへ。女の御けし
きよりもまばゆくとゝのへさせ給へり。うへにも宮に
もさふらふ女房のなかにも。かたちよくあでやかにめ
やすきはみなうつしわたさせ給ひつゝ。院のうちを心
につけて住よく有よく思べくとのみわざとがましき
御あつかひぐさにおぼされ給へり。故ちしのおほいと
のゝ女御と聞えし御はらに。女宮たゞひとゝころお
はしけるをなん。かぎりなくかしつき給ふ御有さ
まにおとらず。后の宮の御おぼえのとし月に
まさり給ふけはひにこそは。などかさしもとみる
までなん。はゝ宮は今はたゞ御おこなひをしづかにし
給て。月ごとの御念仏。年に二たびの御八講おり/\
のたうとき御いとなみばかりをし給て。つれ/\゛に
おはしまあせば。この君のいでいり給ふをかへりてはおや
のやうにたのもしきかげにおぼしたれば。いとあは
れにて。院にもうちにもめしまつはし。春宮もつ
きつきの宮たちも。なつかしき御あそびがたきにて。と
もなひ給へば。いとまなくくるしういかで身をわけ
てしがなとおぼえ給ける。おさな心ちにほの聞
給し事のおり/\いぶかしうおぼつかなく思ひ
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わたれど。とふべき人もなし。宮には事のけしきに
てもしりけりとおぼされん。かたはらいたきすぢな
れば。世とともの心にかけてかけていかなりけることにかは。
なにの契りにてかうやすからぬ思ひそひたる身
にしもなりいでけん。ぜんげう(善巧・ぜんぎょう)太子の我身にとひ
けんさとりをもえ(得)てしがな。とぞひとりごたれ給
ける
(薫)おぼつかなたれ(誰)にと(問)はましいかにしてはじめも
はてもしぬわが身ぞいらふべき人もなし。事に
ふれて我身につゝが(恙)ある心ちするも。たゞならず物
なげかしくのみ思ひめぐらしつゝ。宮もかくさかり
の御かたちをやつし給て。なにばかりの御だうしん(道心)
にてか。俄におもむき給ひけん。かく思はずなりける
ことのみだれにかならずうしとおぼしなるふしあり
けん。人もまさにも(漏)りいでしらじやは。猶つゝむべき事
の聞えにより。吾にはけしきをしらするひとのな
きなめりと思ふ。明暮もつとめ給やうなめれど。はかも
なくおほとき給へる女の御さとりの程に。はちすの
露もあきらかに玉とみがき給はん事もかたし。宮の
なにがしもなをうしろめたきを。吾この御心ちをた
すけて。おな(同)じうはのちの世をだにと思ふ。彼(かの)すぎ
給にけん(柏木のこと)もやすからず思にむすぼゝれてや。などを(推)し
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はかるに。世をへてもたいめんせまほしき心つきて。元
服は物うかり給けれど。すまひはてずをのづから世
中にもてなされて。まばゆきまで花やかなる御
身のかざりも心につかずのみ思ひしづまり給へり。内
にもはゝ宮の御かたざまの御心よせふかくて。いと哀な
る物におぼされ后宮はたもとよりひとつおとゞに
て。宮たちもろともにおひ出あそび給し御もてな
しおさ/\あらため給はず。末に生れ給て心ぐるしう
おとなしうもえ見をかぬ事と院(源氏)のおぼしの給ひし
を思ひ出聞え給つゝ。をろかならず思聞え給へり。右
のおとゞもわが御子どもの君達よりも。此君をばこ
まやかにやん事なくもてなしかしづき奉り給ふ。
昔ひかる君と聞えしは。さる亦なき御おぼえながら。
そねみ給ふ人打そひ。母君の御うしろみなくなどあ
りしに。二心ざまも物ふかく世中をおぼしなだらめ(穏やかに)
し程に。ならびなき御ひかりをまばゆからずもてし
づめ給ひ。ついにさるいみじきよのみだれもいできぬ
べかりしをも。ことなくすぐし給て。後の世の御つとめ
もをくらかし給はず。よろづさりげなくてひさしく
のどけき御心をきてにこそありしが。此君はまだしき
によのぼえいとすぎて。思ひあがりたる事こよな
くなどぞ物し給。げにさるべくていとこの世の人とは
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つくりいでたりける。かりにやどれるかともみゆること
そひ給へり。かほかたちもそこはかと。いづこなんすぐれ
たるあなきよらとみゆるところもなきが。たゞいとな
まめかしうはづかしげに心のおくおほかりげなる
けはひの人ににぬなりけり。香のかうばしさぞこ
の世のにほひならず。あやしきまでうちふるまひ
給へる。あたりとをくへだゝるほどのをひかぜも。ま
ことに百歩のほか(外)もかほりぬべき心ちしける。たれも
さばかりになりぬる御有さまの。いとやつればみ。たゞ
ありなるやはあるべき。さま/\゛に我人にまさらんとつ
くろひよういすべかめるを。かくかたはなるまでうち
しのびたちよらんものゝくまもしるきほのめきのかく
れ有まじきにうるさがりておさ/\とりもつけ給は
ねど。あまたの御からひつにうづもれたるかう(香)のか(香)どもゝ。
此君のはいふよしもなき匂ひをくはへ御前の花の
きも。はかなく袖かけ(ふれ)給ふ梅のかは。春雨のしづく
にもぬれ。身にしむる人おほく。秋の野にぬし(主)なき藤
ばかまも。もとのかほりはくれてなつかしきをひ風。
ことにおりなしからなんまさりける。かくあやしき
まで人のとがむるかにしみ給へるを。兵部卿宮なん
こと/\よりもいとましくおぼして。それはわざと
よろづのすぐれたるうつしをしめ給ひ。あさ夕のこと
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わざにあはせいとなみ。おまへのせんざいにも春は梅の
花ぞのをながめ給。秋はよの人のめづるをみなへし(女郎花)。さ
をしか(小牡鹿)のつまにすめる萩の露にもおさ/\御心うつ
し給はず。老をわするゝきく(菊)に。おとろへ行ふぢばかま(藤袴)。
ものげなきわれもかう(吾亦紅)などは。いとすさまじき霜がれの
頃ほひまでおぼしすてずなど。わざとめきて香に
めづる思をなんたてゝこのましうおはしける。かゝる
ほどにすこしなよびやはらぎすぎて。すいたるか
たにひかれ給へりと世の人は思ひ聞えけり。むかしの源
氏はすべてかくたてゝ。その事と。やうがはりしみ給へ
るかたぞなかりしかし。源中将このみやにはつねに
参りつゝあそびなどにもきしろふ物のねを吹たて。
げにいとましくもわかきどち思ひかはし給つべき
人ざまになん。れいの世の人はにほふ兵部卿かほる中将と
きゝにくゝいひつゞけて。其ころよきむすめおはするやん
ごとなき所々は。心ときめきに聞えごちなどし給も
あれば。宮はさま/\゛におかしうもありぬべきわたりを
ばの給ひよりて。人のけはひ有さまをもけしきと
り給。わざと御心につけておぼすかたはことになかり
けり。冷泉院の一の宮をぞさやうにても見奉らばや。か
ひありなんかしとおぼしたるは。はゝ女御もいとおもく
心にくゝものし給ふあたりにて。姫宮の御けはひ。げ
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にとありがたくすぐれてよその聞えもおはします
に。ましてすこしちかくもさふらひなれたる女房な
どのくはしき御ありさまの事にふれて聞えつた
ふるなどもあるに。いとゞ忍びがたくおぼすべかめり。中
将は世の中をふかくあぢきなき物に思ひずましたる
心なれば。中々心とゞめてゆきはなれがたき思ひや
のこらんなど思ふに。わづらはしきおもひあらんあたり
にかゝIづらはんは。つゝましくなど思ひ捨給ふ。さしあ
たりて心にしむべきことのなきほどさかしだつにや
有けん。人のゆるしなからん事などはまして思ひよ
るべくもあらず。十九になり給とし三位の宰相にて
猶中将もはなれず。御門后の御もてなしにたゞ人に
てははゞかりなきめでたき人のおぼえにてものし給
へど。心のうちには身を思ひしるかた有て物あはれ
になどもありければ。心にまかせてはやりかなるす
き事おさ/\このまず。よろづの事をもてしづめつゝ
をのづからおよすけたる心ざまを人にもしられ給
へり。三宮のとしにそへて心をくだき給ふめる。院の姫
宮の御あたりをみるにも。ひとついんのうちに明
暮たちなれ給へば。ことにふれても人のありさま
をきゝ見奉るに。げにいとなべてならず心にくゝ。ゆへ/\
しき御もてなしかぎりなきを。おなじくは。げに
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かやうならん人をみんにこそ。いけるかぎりの心ゆ
くべきつまなれど。思ひなから大かたこそへだつる
事なくおほしたれ。姫宮の御かたざまのへだて
はこよなく。けどをく。ならはさせ給ふもことはりに
わづらはしければ。あながちにもまじらひよらず。も
し心よりほかの心もつかば。我も人もあしかるべき
ことゝ思ひしりて。物なれよる事もなかりけり。わ
がかく人にめでられんとなり給へる有さまなれば。
はかなくなげのことばをちらし給あたりも。こよ
なくもてはなるゝ心なく。なびきやすなる程に。を
のづからなをさりのかよひ所もあまたになるを。
人のためにこと/\しくなどもてなさず。いとよく
まぎらはしそこはかとなく情けならぬ程の。なか/\
心やましきを思ひよれる人はいざなはれつゝ。三条
宮に参りあつまるはあまたあり。つれなきを見
るもくるしげなるわざなめれど。たえなんよりは
と心ぼそきに思ひわびてさもあるまじききはの
人々のはかなき契りにたのみをかけたる人おほ
かり。さすがにいとなつかしう見所ある御ありさまな
れば。みる人みな心にはからるゝやうにて見すぐ
さる。宮のおはしまさんかぎりは。あさゆふに御めがれ
ず。御覧ぜられみえ奉らんをだにと思ひの給へ
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ば。右のおとゞもあまた物し給ふ御むすめたちを
ひとり/\いと心ざし給ひながら。えこといで給は
ずさすがにゆかしげなきなからひなるをとは思
ひなせど。このきんだちををきてほかにはなずら
ひなるべき人をもとめ出べき世かはとおぼしわづ
らふ。やんごとなくよりも内侍のすけばらの六の君
は。いとすぐれておかしげにこゝろばへなどもたらひ
ておい出給ふを。よのおぼえのおとしめざまなるべ
きしもかくあたらしきを。心ぐるしうおぼして。
一條宮のさるあつかひぐさも(持ち)給へらてさう/\しきに
むかへとりたてまつり給へり。わざとはなくて此人々
に見せそめては。かならず心とゞめ給ひてん。ひとつの有
さまをもみしる人はことにこそあるべけれなどおぼし
て。いといつくしうはもてなし給はず。いまめかしく
おかしきやうにものごのみせさせて。人の心につけん
たよりおほくつくりなし給。のりゆみのかへりあるじ
のまうけ六条院にていと心ことにし給ひて。みこ
たちおはしまさせんの心づかひし給へり。其日みこ
たちおとなにおはするはみなさふらひ給ふ。きさいばら
のはいづれともなくけたかくきよげにおはします
中にも。此兵部卿宮はげにいとすふれてこよなうみえ
給ふ。四のみこ(親王)。ひたちのみやときこゆる。更衣ばらのは。
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思ひなしにやけはひこよなうおとり給へり。れいの
左。あながちにか(勝)ちぬ。れいよりはとく事はてゝ大将
まかで給。兵部卿宮。ひたちのみや。きさいばらの五のみ
やと。ひとつ車にまねきのせたてまつりてまかで給ふ。
宰相中将はまけがたにて。をとなくまかで給にける
を。みこたちおはします御をくりには参り給まじ
やとをしとゞめさせて。御この衛門督。右大弁などさ
らぬ上達部あまたこれかれにのりまじりいざなひ
たてゝ六条院へおはす。みちのやゝほどふるに。ゆきい
さゝかちりて。えんなるたそかれときなり。物の音おか
しきほどに。ふきてあそびていり給を。げにこゝ
をほこさて。いかならん仏の御国にかは。かやうのおりふ
しの心やり所をもとめんとみえたり。しん殿のみ
なみのひさしに。つねのごと南むきに中少将つき
わたり。北むきにむかへに(むかひて)。えか(垣下:えんが)のみこたち上達部の
御座あり。御かはらけなどはじまりて。ものおもしろく
なり行に。もとめ子(求子)まひて。かよれる袖どものうち
かへすはかぜ(羽風)に。おまへ近き梅のいといたくほころびこ
ぼれたる匂ひの。さと(さっと)うちちりわたれるに。れいの
中将の御かほりのいとゞしくもてはやされて。いひ
しらずなまめかし。はつかにのぞく女房なども。やみ(闇)は
あやなく心もとなきほどなれど。香にこそ似たる
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ものなかりけれと。めであへり。おとゞもめでたしと
見給ふ。かたちよういもつねよりまさりてみだれぬ
さまにおさめたるをみて。右のすけ(中将)もこえ(声)くは(加)へ
給へや。いたうまら人(まろうど:客人)だゝしやとの給へば。にくからぬ
ほどに。神のます。など