読んだ本 https://dl.ndl.go.jp/pid/2567604
1
はしひめ
2
そのころ世にかずまへられ給はぬ。ふる(古)宮おは
しけり。はゝかたなどもやんごとなく物し給
て。すぢことなるべきおぼえなどおはしけるを。
ときうつりて世の中にはしたなめられ給ける
まぎれに。なか/\いとなごりなく御うしろみな
どものうらめしき心々にて。かた/\゛につけて
世をそむきさりつゝ。おほやけわたくしに。より
どころなくさしはなたれ給へるやうなり。北の
かたもむかしの大臣の御むすめなりける。あは
れに心ぼそくおやたちのおぼしをきてた
りしさまなど思ひいで給に。たとしへなきと
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おほかれど。ふかき御契りの二なきばかりをなぐ
さめにて。かたみに又なくたのみかはし給へり。
とし頃ふるに御こも物し給はで心もとなかりけ
れば。さう/\しくつれ/\なるなぐさめに。いか
でおかしからんちご(稚児)もがなと。宮ぞとき/\おぼ
しの給ひけるに。めづらしく女君のいとうつく
しげなる生れ給へり。これをかぎりなくあは
しきばみ給て。此たびはおとこにてもなどお
ぼしたるに。おなじさまにてたいらかにはし
給ながら。いといたくわつらひてうせ給ひぬ。みや
あさましくおぼしまどふ。有ふるにつけても
いとはしたなくたへがたき事おほかる世なれ
ど。見すてがたくあはれなる人の御ありさま心
ざまにかけとゞめらるゝほだしにてこそすぐ
しつれ。ひとりとまりていとゞすさまじく
もあるべきかな。いはけなき人々をもひとりは
ぐゝみたてんほどかぎりある身にていとおこが
ましう人わるかるべきことゝおぼしたちて。ほ
いもとげまほしうし給けれど。見ゆつる人な
くてのこしとゞめんをいみじくおほしたゆ
たひつゝとし月もふれば。をの/\をよすけま
4
さり給さまかたちのうつくしうあらまほし
きを明くれの御なくさめにてをのつからぞ
すぐし給ふ。のちに生れ給し君をばさふらふ
人々も。いでやおりふし心うく。などうちつぶ
やきて。心にいれてもあつかひ聞えざりけれ
ど。かきりのさまにて何事もおぼしわかざり
しほどながら。これをいと心ぐるしと思てたゞ
このきみをばかたみに見給てあはれとおぼせ
とばかりたゞ一ことなん宮に聞えをき給ければ。
さきの世のちぎりもつらきおりふしなれ
ど。さるべきにこそはありけめ。と今はとみえし
までいとあはれと思ひてうしろめたげにの給
ひしをと。おぼしいでつゝ。この君をしもいとか
なしうし奉り給。かたちなんまことにいとう
つくしうゆゝしきまで物し給ける。姫君は
心ばせしづかによしあるかたにて。みるめもて
なしもけたかく心にくきさまぞし給へる。いた
はしくやんごとなきすぎはまさりて。いづれ
をもさま/\゛に思ひかしづき聞え給へど。かな
はぬことおほく年月にそへて。みやのうち物さ
びしくのみなりまさる。さふらひし人もたつ
きなき心ちするに。え忍びあへずつき/\゛にし
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たがひてまかでちりつゝ。わかぎみの御めのとも
さるさはぎにはか/\゛しき人をしもえりあへ
給はざりければ。程につけたる心あさ(浅)ゝにてお
さなきほどを見すてたてまつりにければ。たゞ
宮ぞはぐゝみ給。さすがにひろくおもしろき宮
の池。山などのけしきばかりむかしにかはらで
いといたうあれまさるを。つれ/\゛とながめ給。け
いじ(家司)などもむね/\しき人もなかりければ。とり
つくろふ人もなきまゝに。くさあをやかにしげり。
軒のしのぶぞ。ところえがほに青みわたれる。おり/\
につけたる花紅葉の色をも香をもおなじ心に
見はやし給ひしにこそなぐさむ事もおほかり
けれ。いとゞしくさびしくよりつかんかたなき
まゝに。ぢ仏の御かざりばかりをわざとせさせ給
てあけ暮おこなひ給ふ。かゝるほだしともにかゝ
づらふだに思ひのほかに口おしう我心ながらもか
なはざりける契りとおぼゆるを。まいてなににか
世の人めいで今さらにとのみとし月にそへてよ
の中をおぼしはなちつゝ心ばかりはひじりに
成はて給て。こ君のうせ給にしこなたはれいの
人のざまなる心ばへなどたはふれにてもおbの
し出給はざりけり。などかさしもわかるゝほどの
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かなしひは。又よにたぐひなきやうにのみこそは
おぼゆべかめれとありふれば。さのみやは世人にな
ずらづ御心づかひをし給て。いとかく見ぐるしく
たつきなき宮のうちも。をのづからもてなさるゝ
わざもやと人はもどき聞えて。なにぐれとつき/\゛
しく聞えごろこともるいにふれておほかれど。
きこしめしいれざりけり。御念ずのひま/\には
この君だちをもてあそびやう/\をよすけ給へば。
ことならはし五(碁)うちへん(偏)つぎなどはかなき御
あそびわざにつけても心ばへどもをみたてまつ
り給に。姫君はらう/\しくふかくおもりかに
みえ給。わか君はおほとかにらうたけなるさま
して。ものつゝみしたるけはひにいとうつくし
いさま/\゛におはす。春のうらゝかなる日かげに
池の水鳥などのはねうちかはしつゝ。をのがじゝ
さへづるこえなどをつねははかなきことゝ見給ひ
しかども。つかひはなれぬ我うらやましくなが
め給て。君だちに御ことゞもをしへきこえ給ふ。
いとおかしげにちいさき御ほどにとり/\゛かきな
らし給ものゝねども。哀におかしく聞ゆれば涙
をかけ給ひて
(八の宮)うちすてゝつがひさりにし水とりのかりのこ
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の世にたちをくれけん心づくしなりやと。め。をし
のごひ給かたち。いときよげにおはします宮
なり。とし頃の御おこなひにやせほそり給ひに
たれど。さてもあてになまめきて君達をかし
づき給。御心ばへになをし(直衣)のな(萎)へばめるをき(着)給て。
しどけなき御さまいとはづかしげなり。姫君
御すゞりをやをらひきよせて。手ならひのやう
にかきまぜ給ふを。これにかき給へすゞりにはかき
つけざなりとて。かみ奉り給へば。はぢらひて
かき給ふ
(大姫)いかでかくすだちけるぞと思ふにもうき水鳥
のちぎりをぞしる よからねど。そのおりはいと
あはれなりけり。て(手)はおひさきみえてまだよく
もつゞけ給はぬほどなり。わかい君もかき給へとあ
れば。今すこしおさなげにひさしくかきいで給
へり
(中の君)なく/\もはねうちき(着)する君なくばわれぞす(巣)
もり(守)になるべかりける 御ぞどもなど。なへば見て
おまへに又人もなくいとさびしく。つれ/\゛げなる
に。さま/\゛らうたげにて物し給ふを。あはれに
心ぐるしういかゞおぼさゞらん。経をかたてにも(持)給
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わか君にさう(箏)の御こと(琴)を。まだおさなけれどつ
ねにあはせつゝならひ給へば。聞にくゝもあらでい
とおかしく聞ゆ。ちゝみかどにも母女御にもとく(疾)を
くれ給て。はか/\゛しき御うしろみのとりたて
たるおはせざりければ。さえ(才:学問)などふかくもえなら
ひ給はず。まいて世の中にすみつく御心をきては
いかでかはしり給はん。たかき人と聞ゆる中にも。
あさましうあてにおほとかなる女のやうに
おはすれば。ふるきよ(世)の御たからもの。おほぢ(祖父)お
とゞの御そう分(処分)。なにやかやとつ(尽)きすまじかり
けれど。行えもなくはかなくうせはてゝ御でう
どばかりなんわざとうるはしくておほかりける。
まいりさふらひ聞え心よせ奉る人もなし。つれ/\d歟雨天
なるまゝに。うたづかさ(雅楽寮)の物のし(師)どもなどやうの
すぐれたるをめしよせつゝ。はかなきあそびに
心をいれておひ出給へれば。そのかたはいとおかし
くすぐれ給へり。源氏のおとゞの御おとうと八の宮
とぞ聞えしを。冷泉院の東宮におはしましゝ
とき。朱雀院のおほ后のよこさまにおぼしかま
へて。このみやを世の中にたちつぎ給ふべくわが御
ときもてかしづきたてまつり給けるさはぎに。
あいなくあなだざまの御なからひには。さしはな
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たれ給にければ。いよ/\かの御つぎ/\になりは
てぬる世にて。えまじらひ給はず又この年ごろ
かゝるひじりになりはてゝ。いまはかぎりとよろ
づをおぼしすてたり。 かゝるほどにすみ給ふ宮
や(焼)けにけり。いとゞしきよにあさましくもあへな
くてうつろひすみ給ふべきところのよろしきもな
かりければ。宇治といふところによしあるやまざと
も給へりけるにわたり給。思ひすて給へる世なれ
ども今はとすみはなれなんをあはれにおぼさる。
のわたりにて。しづかなる思ひにかなはぬかたも
あれど。いかゞはせん。花もみぢ(紅葉)水のながれにも心を
やるたよりによせて。いとゞしくながめ給より
ほかの事なし。かくたへこもりぬる野山のすえに
も。むかしの人(北の方)ものし給はましかばと思ひきこ
えたまはぬおりなかりけり
(八宮の歌)みし人もやどもけふりになりにしをなにと
てわが身きえのこりけん いけるかひなくぞおぼ
しこがるゝや。いとゞ山かさなれる御すみかにたづ
ね参るひとなし。あやしき下す(下衆)など。い中び
たるやまがつ(山賤)どものみまれ(稀)になれ参りつかうま
つる。みねのあさ霧はるゝおりなくてあかしく
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らし給に。此うぢ山にひじりだちたる(聖めいた)あざりす
みけり。さえいとかしこくて世のおぼえもかろ
からねど。おさ/\おほやけごとにもいでつかへず。こ
もりいたるに。このみやのかくちかきほどにすみ給
てさびしき御さまに。たうときわざをさせ給
つゝ。ほうもん(法文)をよみならひ給へば。たうとがり
聞えてつねにまいる。年頃まなびしり給へるこ
とゝものふかき心をとききかせ奉り。いよ/\こ
のよのかりそめにあぢきなきことを申しらす
れば。心ばかりははちすのうへにおもひのぼり。
にごりなき院にもすみぬべきを。いとおさなき
人々をみすてんうしろめたさばかりになん。え
ひたみちにかたちをもかへぬなどへだてなく物
語し給。此あざりは冷泉院にもしたしくさふら
ひて。御経などをしへ聞ゆる人なりけり。京にい
でたるついでにまいりてれいのさるべきふみな
ど御覧じて。とはせ給事もあるついでに。八の宮
のいとかしこくないけう(内教)の御さえ(才)さとりふかく物
し給けるかな。さるべきにて奉れ給へる人にやも
のし給らん。心ふかく思すまし給へるなど。まこ
とのひじりのをきてになんみえ給と聞ゆ。い
まだかたりはかへ給はずや。ぞくひじり(俗聖:という渾名)とかこの
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わかき人々のつ(付)けたなる(ました)。あはれなることなり
などの給はす。宰相中将も御まへにさふらひ給
て。我こそ世のなかをばいとすさまじく思ひ
しりながら。おこなひなど人にめとゞめらるばか
りはつとめず。くちおしくてすぐしくれど。人
しれず思ひつゝ。ぞくながらひじりになり給ふ
心のをきてやいかにとみゝとゞめて聞給ふ。出家
の心ざしはもとより物し給へるを。はかなき
事に思ひとゞこほり。いまとなりては心ぐる
しき女子どもの御うへをば。え思ひすてぬと
なんなげき侍り給ふとそうす。さすがに物のね
めづるあざりにて。げにはた。此姫君たちのこと
ひきあはせてあそび給へる。川んみにきほひ
て聞え侍るはいとおもしろく。ごくらく思ひやら
れ侍や。とこだい(古体)にめづれば。みかどほゝえみ給て。さる
ひじりのあたりにおひ出て此よのかたざまは
たど/\しからんとをしはからるゝを。おかしの
ことや。うしろめたく思ひすてがたくもてわづ
らひ給ふらんを。もししばしもをくれんほど
はゆづりやはし給はぬ。などぞの給はする。この
院のみかど八十のみこにぞおはしましける。朱
雀院の故六条院にあづけきこえ給し入道
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の宮の御ためしをおぼしいでゝ。かの君だちを
がな。つれ/\゛なるあそびがたきになどうちお
ぼしけり。中将のきみはなか/\みこの思ひす
まし給へらん御心ばへをたいめしてみたてま
つらばやと思ふ心ぞふかくなりぬる。されあざ
りのかへり入にも。かならず参りて物ならひ聞ゆ
べく。まづうち/\にもけしき給はり給へなど
かたらひ給ふ。みかどは御ことづてにあはれな
る御すまいを人づてに聞ことなどきこえ
給ふて
(冷泉院)世をいとふ心にかよへどもやへたつ空を君
やへだつる あざり。この御つかひをさきにたてゝ
かの宮に参りぬ。なのめなるきはのさるべき人
のつかひだにまれなる山かげに。いとめづらいsくま
ちよろこび給ふて。ところにつけたるさかなな
どして。さるかたにもてはやし給ふ 御返
(八宮の歌)あとたえて心す(澄)むとはなけれども世をうぢ(宇治)山に
やどをこそか(借)れ ひじりのかたをばひげ(卑下)して聞え
なし給へれば。猶よにうらみのこりけりといとおし
く御らんず。あざり聞えて。法文などの心得まほ
しき心ざしなん。いはけなかりしよはひより
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ふかく思ひながら。えさらずよにありふるほどお
ほやけわたくしにいとまなくあけくらし。わざと
とぢこもりてならひよみ。おほかたはか/\゛しく
もあらぬ身にしも。世の中をそむきがほならんも
はゞかるべきにあらねど。をのづからうちたゆみま
ぎらはしくてなんすぐしくるを。いとあり
がたき御ありさまをうけたまはりつたへしよ
り。かく心にかけてなんたのみ聞えさするなど
ねんごろに申給しなどかたりきこゆ。宮世の中
をかりそめの事と思ひとり。いとはしき心の
つきそむることも我身にうれへある時。なべての
世もうらめしう思ひしるはじめありてなん
道心もおこるわざなめるを。としわかく世の中
思ふにかなひ。なに事もあかぬことはあらじと
おぼゆる身の程に。さはた後の世をさへたどりし(知)
り給らんがありがたさ(珍しき)。こゝにはさべき(なるべくして)にや。たゞ
いとひはなれよと。ことさらに仏などのすゝめ
おもむけ給ふやうなる有さまにて。をのづか
らこそしづかなる思ひかなひゆけど。のこりす
くなき心ちするに。わか/\しくもあらですぎ
ぬべかめるを。きしかたゆくすえさらにえたどる
所なく思ひしらるゝを。かへりては心はづかしげな
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るのりのともにこそは物し給なれなどの給
ひて。かたみに御せうそこかよひみづからもまうで
給ふ。げにきゝしよりもあはれにすまい給
へるさまよりはじめて。いとかり(仮)なるくさ(草)のいほ
りに思ひなし。ことそぎ(質素)たり。おなじ山里と
いへど。さるかたにて心とまりぬべくのどやかなる
もあるを。いとあらましき水のをと。なみのひゞ
きにもの忘れうちし。よるなど心とけて夢を
だにみるべきほどもなげにすごく。ふきはらひた
り。ひじりたちたる御ためにはかゝるしもこそ心
とまらぬもよほしならめ。女君たちなに心ちし
てすぐし給ふらん。よの常の女しくなよびたる
かたはとを(遠)くや。とをしはからるゝ御ありさまなり。
仏の御かたにはさうじばかりをへだてゝぞおはすべ
かめる。すぎ心あらん人はけしきばみよりて。人の
御心ばへをも見まほしうさすがにいかゞとゆか
しうもある御けはひなり。されどさるかたを
思ひはなるゝねがひに。やまふかくたづねきこえ
たえるほいなく。すき/\゛しきなをさりごとをう
ちいであされまん(戯れる)も。ことにたがひてやなど
思ひかへして。宮の御ありさまのいとあはれな
るをねんごろにとふらひ給ひ。たび/\ま
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いり給つゝおもひしやうに。うばそく(優婆塞)ながらをこ
なふやまのふかき心。法文などわざとさかしげに
はあらでいとよくの給しらす。ひじりだつ人さ
えあるほうしなどはよにおほかれど。あまりこは/\
しく。けどを(気遠)げなるしうとく(宿徳)のそうづ(僧都)僧正の
きはゝ。世にいとまなくきすくにて。ものゝこゝろ
をとひあらはさんもこと/\しくおぼえ給ふ。
又その人ならう仏の御弟子のいむことをたもつば
かりのたうとさはあれど。けはひいやしく。こ
とばだみて。こちなげに物なれたるいと物しく
て。ひるはおほやけごとにいとまなくなどしつゝ。
しめやかなるよひのほどけぢかき御枕がみ(上)な
どにめしいれかたらひ給にも。いとさすがにもの
むつかしくなどのみあるを。いとあてに心ぐるし
きさまして。の給いづることのはもおなじ仏の御
をしへをもみゝ近きたとひにひきまぜ。いとこよ
なくふかき御さとりにあはらねど。よき人はものゝ
心をえ給ふかたのいとことにものし給ふければ。
やう/\見なれたてまつり給。たびことにつねに
みたてまつらまほしうて。いとまなくなどして
ほどふるときは。恋しくおぼえ給。このきみのか
くたうとがり聞え給へれば。冷泉院よりもつ
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ねに御せうそこなどありて。とし頃をとにも
おさ/\聞え給はず。いみじくさびしげなりし
御すみかに。やう/\人めみるとき/\゛あり。おり
ふしにとふらひきこえ給ふ事いかめしう
この君もまつさるべきことにつけつゝ。おかしきやう
にもまめやかなるさまにも。心よせつかうまつり
給ふこと三とせばかりに成ぬ。あきのすえつかた
四きにあてゝし給御念仏を。この川づらはあじ
ろのなみも。このごろはいとゞみゝかましく
しづかならぬをとて。かのあざりのすむ寺のだう
にうつろひ給ひて。七日のほどおこなひ給。姫君
たちはいと心ぼそくつれ/\゛まさりてながめ給ふける
頃。中将の君ひさしくまいらぬかなと思ひいで
聞え給けるまゝに。有明の月のまだ夜ふかくさし
いづるほどにいでたちて。いとしのびて御ともに人
などもなくやつれておはしける。川のこなたな
れば舟などもわづらはで御馬にてなりけり。入
もてゆくまゝにきりふたがりて。道も見えぬしげ
きの中をわけ給ふに。いとあらましき風のき
ほひにほろ/\とおちみだるゝ。このはの露のちり
かゝるもいとひやゝかに人やりならずいたくぬれ給
ぬ。かゝるありきなどもおさ/\ならひ給はぬこゝ
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ちに。こゝろぼそくおかしくおぼされけり
(薫)山おろしにたへぬ木の葉の露よりもあやな
くもろき我なみだかな 山がつのおどろくもうるさ
しとて。ずいしんのをともせさせ給はず。しば
のまがきをわけつゝ。そこはかとなき水のながれ
どもをふみしだく。かmのあしをともなをしの
びてとよういし給へるに。かくれなき御にほひぞ
風にしたがひて。ぬししらぬかとおどろくねざめの
家々ありける。ちかくなるほどにそのことゝも
きゝわかれぬものゝねどもいとすごげに聞ゆ。つね
にかくあそび給ときくを。ついでなくて。みこの
御きん(琴)のね(音)のなだかきもえきかぬぞかし。ようお
りなるべし。と思ひつゝいりたまへば。びわの声の
ひゞきなりけり。わうしきでう(黄鐘調)にしらべて。よの
つねのかきあはせなれど所からにやみゝなれぬ
心ちして。かきかへすばちのをとも物きよげに
おもしろし。さうのことあはれになまめいたる
聲して。たえ/\゛きこゆ。 しばしきかまほしき
に忍び給へど。御けはひしるくきゝつけて。とのい
人めくおのこなまかたくなしきいできたり。しか/\
なんこもりおはします。御せうそこをこそ聞こえ
させめと申す。なにがしかかぎりある御おこな
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ひのほどをまぎらはし聞えさせんにあいなし。
かくぬれ(濡れ)/\参りていたづらにかへらんうれへ(愁い)を。
姫君の御かたにきこえてあはれとの給はせば
なん。なぐさむべきとの魂合へば。見にくきかほ(顔)う
ちえみて。申させ給はんとてたつを。しばしやと
めしよせて。としごろ人づてにのみ聞てゆかし
く思ふ御ことのねどもをうれしきおりかな。し
ばしすこしたちかくれてきくべき。ものゝく
まありや。つきなくさしすぎてまいりよらん
ほど。みなことやめ給てはいとほいなからんとのた
まふ。御けはひ。かほかたちのさるなを/\しき
心ちにもいとめでたくかたじけなくおぼゆれ
ば。人きかぬときは明暮かくなんあそばせど。し
も人にても都のかたよりまいりたちまじる
人侍ときは。をともせさせ給はずおほかたかく女
君だちおはします事をば。かくさせ給ひ。な
べての人にしらせたてまつらじとおぼしの給
はするなりと申せば。うちわらひて。あぢきな
き御ものがくしなり。しかしのび給なれど。み
な人ありがたき世のためしにきゝいづべかまえる
をとの給ひて。なをしるべせよ。われはすき/\゛し
き心などなき人ぞ。かくておはしますらん御有
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さまのあやしく。げになべてにおぼえ給はぬ
なりとこまやかにの給へば。あなかしこ心なき
やうに後の聞えや侍らんとて。あなたのおまへは
竹のすいがい(透垣)しこめて。みなへだてことなるををしへ
よせたてまつれり。御ともの人は。にしのらうに
よびすへて。このとのい人あいしらふ。あなたにか
よふべかめるすいがいのとををしあけて見給へ
ば。月おかしきほどにきりわたれるをながめてす
だれをすこしみじかくまきあげて人々いたり。
すのこにいとさむげに身ほそく。なへばめるわらは
ひとり。おなじさまなるおとななどいたり。うち
なる人ひとりははしらにすこしいかくれて。琵琶
をまへにをきて。ばちを手まさぐりにしつゝい
たるに。雲がくれたりつる月の俄にいとあかくさ
しいでたれば。あふぎならでこれしても月はまね
きつべかりけりとて。さしのぞきたるかほいみじ
くらうたげに匂ひやかなるべし。そひふしたる
人は。ことのうへにかたふきかゝりて。いる日をかへすば
ちこそありけれ。さまことにも思をよび給ふ御
こゝろかなとてうちわらひたるけはひ。今すこし
おもりかによしづきたり。をよばすともこれも月
にはなるゝ物かはなどはかあんきことをうちとけ
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の給かはしたる御けはひ。さらによそに思ひやり
しには似ず。いと哀になつかしうおかし。むかし物
がたりなどにかたりつたへて。わかき女房などのよ
むをも聞に。かならずかやうのことをいひたるさし
もあらざりけんと。にくゝをしはかるゝを。け
にあはれなる物のくまありぬべき世なりけり
と心うつりぬべし。霧のふかければさやかにみゆべ
くもあらず。又月さしいでなんとおぼす程に。おくの
かたより人おはすとつげ聞ゆる人やあらん。す
だれおろしてみないりぬ。おどろきさがほにはあら
ず。なごやかにもてなして。やをらかくれぬるけは
ひども。きぬのをともせず。いとなよゝかに心ぐる
しうて。いみじうあてにみやびかなるをあはれと
思給ふ。やをらたち出て京に御車いてまいるべ
く人はしらせつ。ありつるさふらひに。おりあし
く参り侍にけれど。なか/\うれしく思ふ事すこ
しなぐさめてなんかくさふらふよし聞こえよ。い
たうぬれにたる。かごとも聞こえさせんかしとの給へ
ば。まいりて聞ゆ。かくみえやしぬらんとはおぼし
もよらで。うちとけたりつる事どもをきゝやし
給つらんといみじくはづかし。あやしくにほふ
かぜのふきつるをおもひかけぬほどなれば。おど
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ろかざりける心をそさよ。と心もまどひてはぢ
おはさうず(恥ずかしがる)。御せうそこなどつたふる人もいと
うい/\しき人なめるを。おりからにこそよろづ
のこともおぼひて。まだきりのまきれなれば。
ありつるみすのまへにあゆみ出てついい給ふ。山
ざとびたるわか人どもはさしいらへんことのはもお
ぼえで。御しとねさしいづるさまもたど/\しげ
なり。このみすのまへにははしたなく侍りけり。
うちつけにあさき心ばかりにてはかくもたづねま
いるまじき山のかけぢに思給ふるを。さまことに
てこそかく露けきたびをかさねては。さりとも
御らんじしるらんとなんたのもしう侍りといと
まめやかにの給。わかき人々のなだらかに物き
こゆべきもなく。きえかへりかゝやかしげなるも。か
たはらいたければ。女ばえのおくふかきを。おこし
いづるほど。ひさしくなりてざわとめいたるも。く
るしうて。なに事も思ひしらぬありさまに
て。しりがほにもいかゞはきこゆべきと。いとよしあ
りあてなるこえして。ひき入ながらほのかにの給
かつしりながらうきをしらずかほなるも。よのさが
と思ふ給へしるを。ひと所しもあまりおぼめかせ
給らんこそ口おしかるべけれ。ありがたうよろづを
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思すましたる御すまいなどに。たぐひ聞こえさ
せ給ふ御心のうちはなにこともすゞしくをしは
かられ侍れば。なをかく忍あまり。侍るふかさあさ
さのほどもわかせ給はんこそかひは侍らめ。世の
つねのすき/\゛しきすぢにはおぼしめしは
なつべくや。さやうのかたはわざとすゝむる人侍り
とも。なびくべうもあらぬ心づよさになん。をの
づからきこしめしあはするやうも侍りなん。
つれ/\゛とのみすぐし侍よの物がたりも聞こえ
させ所にたのみ聞こえさせ。又かく世はなれてな
がめさせ給ふらん御心のまぎらはしにも。さ
しもおどろかさせ給ふばかり聞こえなれ侍らば。
いかに思ふさまに侍らんなどおほくの給へば。
つゝましくいらへにくゝておこしつるおい人の
いできたるにぞゆづり給ふ。たとしへなくさし
すぐして。あなかたじけなや。かたはらいたき
おましのさまにも侍かな。みすのうちにそわかき
人々はものゝ程しらぬやうに侍こそなどしたゝ
かにいふ聲の。さだすぎたるもかたはらいたく。
君だちはおぼす。いともあやしく世の中にすま
い給人のかずにもあらぬ御ありさまにて。さも有
ぬべき人々だにとふ(訪)らひかず(数)まへ聞こえ給ふも。
23
みえ聞こえずなりまさり侍めるに。ありがたき
御心ざしの程は。数にも侍らぬ心にも。あさまし
きまで思給へ。きこえさせ侍をわかき御心ち
にもおぼししりながら。聞えさせ給ひにくき
にや侍らんと。いとつゝみなくものなれたるも。な
まにくき物からけはひいたう人めきて。よしあ
るこえなれば。いとたつきもしらぬ心ちしつる
に。うれしき御けはひにこそなに事もげにお
もひしり給けるたのみこよなかりけりとて。よ
りい給へるを。木丁のそばよりみれば。あけぼのゝ
やう/\物のいとわかるゝに。げにやつし給へると
身ゆるかりぎぬすがたの。いとぬれしめりたる
ほど。うたて此世のほかのにほひにやとあやし
きまでかほりみちたり。このたい人はうちなき
ぬ。さしすぎたるつみもやと思ふ給へしのぶれ
ど。あはれなるむかしの御物がたりのいかならん
ついでに。うち出聞えさせ。かたはしをもほのめ
かししろしめさせんと年ごろねんずのつい
でにも。うちまぜ思給へわたるしるしにや。うれし
きおりに侍るをまだきにおぼほれ侍るなみ
だにくれて。えんこそ聞えさせず侍けれとうちわ
なゝくけしき。まことにいみじくものがなしと
24
思へり。おほかたさだすきたる人は涙もろなる
物とは見きゝ給へど。いとかうしも思へるもあやし
うなり給て。こゝにかく参る事はたびかさなり
ぬるを。かくあはれしり給へる人もなくてこそ。露
けき道のほどにひとりのみそほちつれ。うれしき
ついでなめるを。ことなのこひ給ひそかしとの給
へば。かゝるついでしも侍らじかし。又侍るとも。よの
まのほどしらぬいのちのたのむべきにも侍らぬ
を。さしばたゞかゝるふるもの。世に侍けりとばか
りしろしめされ侍らなん。三条の宮に侍し
こ侍従はぁなくなり侍りにけると。ほの聞(聞き)は
べりし。そのかみむつましう思ふ給へしおなじ
ほどの人おほくうせ侍りにける世の末に。はるか
なる世かいよりつたはりまうできて。この五とせ(年)
六とせのほどなん。これにかくさふらひ侍り。えし
ろしめさしかし。このころとう大納言と申なる
御このかみの右衛門督にてかくれ給ひにしは。物の
ついでなどにやかの御うへとてきこしめしつたふ
る事も侍らん。すぎ給ていくばくもへたゝらぬ
心ちのみし侍る。そのおりのかなしさもまだ袖の
かはくおり侍らず思ふ給へらるゝを。てをおりて
かぞへ侍れば。かくおとなしくならせ給にける。御
25
よはひの程もゆめのやうになんかの故権大納言
の緒めのとに侍しは。弁が母になん侍し。あさ夕
につかうまつり侍しに。人かずにも侍らぬ身なれ
ど。人にしらせず御心よりはたあまりけることを。
おり/\うちかすめの給ひしを。今はかぎりにな
り給にし緒やまひのすえつかたにめしよせ
て。いさゝかの給ひをく事なん侍しを。きこしめ
すべきゆへなん一こと侍れど。かばかり聞えいで
侍るに。のこりをとおぼしめす御心侍らず。のど
かになんきこしめしはて侍べき。わかき人々も
かたはらいたくさしづぎたりとつきしろひ
侍めるも。ことはりになんとてさすがについいでず
なりぬ。あやしく夢がたり。かむなぎ(巫女)やうのも
のゝ。とはずがたりするやうにめづらかにおぼさる
れど。あはれにおぼつかなくおぼしわたる事の
すぢを聞ゆれば。いとおくゆかしけれど。げに人め
もしげし。さしぐみにふる物がたりにかゝづらひ
て。よをあかしはてんもこち/\しかるべければ。
そこはかと思ひわくことはなきものから。いにしへの
ことゝ聞侍るも物あはれになん。さらばかならず
此のこりきかせ給へ。霧はれゆかばはしたなか
るべきやつれを。おもなく緒らんじとがめられぬ
26
べきさまなれば。思ふ給ふる心のほどよりはく
ちおしうなんとてたち給ふに。かのおはしま
す寺のかねのこえかすかに聞えて。きりいとふ
かくたちわたれり。 みねのやへ雲思ひやるへだて
おほくあはれなるに。なをこのひめ君たちの御
心のうちども心ぐるしう。何ごろをおぼし残す
らん。かくいとおくまり給へるもことはりぞかし
などおぼゆ
(薫)あさぼらけ家ぢもみえずたづねこしまきの
お山はきりこめてげり心ぼそくも侍るかなとた
ちかへりやすらひ給へるさまを。都の人のめな
れたるだに。猶いとことに思ひ聞えたるを。まい
ていかゞはめづらしう見ざらん。御返(かへり)聞えつたげに
くげに思ひたれば。れいのいとつゝましげにて
(大君)雲のうるみねのかけぢを秋ぎりのいとゞへ
だつるころにもあるかな すこしうちなけい給
へるけしきあさからずあはれなり。なにばかり
おかしきづしはみえぬあたりなれど。げに心ぐる
しき事おほかるにも、あかうなりゆけばさすが
にひたおもてなる心ちして。なか/\なるほどに
うけ給はりさしつることおほかる。のこりは今す
こしおもなれてこそはうらみ聞ゆさすべかめれ。さ
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るはかく世の人めいてもてなし給ふべくはお
もはずに。物おぼしわかざりけりとうらめしう
なんとて。とのい人がしつらひたるにしおもてに
おはしてながめ給あじろは人さはがしげな
り。されどひをもよらぬにやあらん。すさまじ
げなるけしきなりと。御ともの人々みしり
ていふ。あやしきふねどもに柴かりつみ。をの/\
何とき世のいとなみ共にゆきかふさまどもの。
はかなき水のうへにうかひたる。たれもおもへば
おなじことなるよのつねなさなり。われはう
かまず玉のうてなにしづけき身と思ふべき
世かはと思ひつゞけらる。すぐりめしてあなた
に聞え給ふ
(薫)はし姫の心をくみてたかせ(高瀬)さすさほのしづく
に袖ぞぬれぬる ながめ給ふらんかしとてとの
い人にもたせ給へり。さむげにいらゝきたるか
ほしてもてまいる。御かへりかみのかなどおぼ
っろけならんははづかしげなるを。ときこそはかゝる
おりはとて
(大君)さしかへる宇治の川おさ朝夕のしづくや袖をく(朽)
たしはつらん身さへきて といとおかしげにかき
給へり。まほにめやすく物し給けりと心とまり
28
ぬれど。御車いて参りぬと人々さはがし聞
ゆれば。とのい人ばかりをめしよせてかへりわた
らせ給はん程に。かならずまいるべしなどの給ふ。
ぬれたる御ぞどもはみなこの人にぬぎかけ給て。
とりにつかはしつる御なをしにたてまつりかへ
つ。おい人の物語にかゝりておぼしいでらる。思
ひしよりはこよなくまさりておほとかにおか
しかりつる御けはひども。おも影にそひてなを
思ひはなれがたき世なりけりと心よはく思ひ
しらる。御ふみ奉り給ふ。けさうだちてもあらず
しろきしきしのあつごえたるに。ふではひきつ
くろひえりて。すみつきみどころありてかき給ふ。
うちつけなるさまにやとあいなくとゞめ侍て。の
こりおほかるもくるしきわざになん。かたはしき
こえをきつるやうに今よりはみすのまへも心や
すくおぼしゆるすべくなん。御山ごもりはて侍
らん日かずもうけ給をきて。いふせかりし霧のま
よひもはるけ侍らんなどぞいとすくよかにかき
給へる。左近のぞう(左近将監)なる人御つかひにて。かのおい人
たつねてふみもとらせよとの給。とのい人がさ
むげにてさまよひしなどあはれにおぼしや
りて。おほきなるひわりご(桧破籠)やうのものあまた
29
せさせ給。また又の日。かの御寺にもたてまつり給。山
ごもりのそうどもこの頃のあらしには。いと心ぼ
そくくるしからんを。さておはします程のふせ
給ふべからんとおぼしやりて。きぬわた(絹、綿)などおほか
りけり。御おこなひはてゝいで給ふあしたなり
ければ。おこなひ人どもにわたきぬけさ衣など
すべてひとくだりのほどづゝ。あるかぎりの大
とこたちに給ふ。とのい人かの御ぬぎすての。えん
にいみじき。かりの御ぞども。えならぬしろきあや
のおぞのなよ/\といひしらずにほへるをうつ
しきて。身をわたえかへぬ物なれば似つかはし
からぬ袖のかを人ことにとがめられ。めでらるゝなん
なか/\所をかりける。心にまかせて身をやす
くもふるまはれば。いとむくつけきまで人のお
どろく匂ひをうしなひてはやと思へど。所せき
人の御うつりがにてえもすゝぎすてぬぞあま
りなるや。君はひめ君の御返事いとめやすくこ
めかしきをおかしく見給。宮にもかく御せう
そこありきなど人々聞えさせ御らんぜさす
れば。なにかはけさうだちてもてない給はんも
中々うたてあらん。れいのわかき人ににぬ御心
ばへなめるを。なからん後もなど一こと打ほのめ
30
かしてかはさやうにて心とめたらんなどの
給けり。御みづからもさま/\゛の御とふらひの
山のいはやにあまりし事などの給へるに。まう
でんとおぼして三の宮のかやうにおくまりた
らんあたりのみまさりせんこそおかしかるべ
けれと。あらましごとにだにの給ふ物を。き
こえはげまして御心さはがし奉らんとお
ぼして。のとやかなるゆふぐれに参り給へり。れ
いのさま/\゛なる御物語きこえかはし給ついで
に。うぢの宮の事かたりいでゝみしあかつきの有
さまなどくるしく聞え給に。宮いとせちに
おかしとおぼしたり。さればよと御けしきを見
ていとゞ御心うごきぬべくいひつゞけ給ふ。さてそ
のありけんかへりことはなどか見せ給はざりし。
まろならましかばとうらみ給。さかしいと
さま/\゛御らんずべかめるはしをだに。見せさせ
給はぬ。かのわたりはかくいともむもれたる身に
ひきこめてやむべきけはひにも侍らねば。かなら
ず御らんぜさせばやと思ひ給へれど。いかでかたづ
ねよらせ給ふべきかや。すきほどこそ。す(好)かまほしく
は。いとよくすきぬべきよに侍りけれ。うちかくろへ
つゝおほかめるかな。さるかたに見どころありぬべき
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女のおもはしきうちしのびたるが。山ざとめき
たるくま(隈)などにをのづから侍るべかめり。このきこえ
さするわたりは。いとよ(世)づかぬひしり(聖)ざまにて。こち/\゛
しうぞあらんと。とし頃思ひあなづり侍て。みゝを
だにこそとゞめ侍らざりけれ。ほのかなりし月影
の見おとりさえずは。まほならんはやけはひ有
さまはたさばかりなんをぞ。あらまほしき
程とおぼえ侍るべきなど聞え給。はて/\はま
めだちていとねたく。おぼろけの人に心うつる
まじき人の。かくふかく思へるをおろかならじと
ゆかしうおぼず事かぎりなくなり給ひぬ。なを
又々よくけしき見給へと人をすゝめ給て。かぎ
りある御身のほどのよだけさをいとはしき
まで心もとなしとおぼしたれば。おかしくて
いでやよしなくぞ侍。しばし世の中に心とゞめじ
と思ふ給ふめる。やうある身にて。なをさりごともつゝ
ましう侍を。心ながらかなはぬこゝろつきそめ
なば。おほきに思ふにたがふべきことなん侍べき。
と聞え給へば。いであな。こと/\し。れいのおどろ/\
しきひじりことばみはてゝしがな。とてわら
ひ給ふ。心のうちにはかのふる人のほのめかしく
すぢなどのいとゞうちおどろかされて。ものあ
32
はれなるにおかしとみることもめやすしとき
くあたりもなにばかり心にもとまらざりけ
り。十月(かんなづき)になりて五六日のほどにうぢへまうで
給。あじろをこそこのごろは御覧ぜめと聞ゆる
人々あれど。なにかそのひをむし(蜉蝣)にあらそふ
心にてあじろにもよらん。とそぎすて給て。(例のいと忍びやかに出て立給ふ。)か
ろらかにあじろくるまにて。かとりのなをし
さしぬきぬはせて。ことさらひき(着)給へり。宮ま
ちよろこび給て所につけたる御あるじ(饗応)など
おかしう忘なし給ふ。くれぬればおほとなぶら(大殿油)
ちかくて。さき/\゛見さし給へるふみ共のふかき
など。あざりもさうじおろして義(解釈)などいはせ
給。打(うち)もまどろまず。川風のいとあらましき
に。このはのちりかふをと。水のひゞきなどあは
れもすぎてものおそろしく心ぼそき所のさ
まなり。あけがたちかくなりぬらんと思程に。あり
ししのゝめ思ひいでられて。ことのねのあはれ
なることのついでつくり出て。さきのたびのきり(霧)に
まどはされ侍しあけぼのに。めづらしき物のね
いぶかしうあかず思ひ給へらるゝなど聞え給ふ。
いろをもかをもおもひすてゝし後。むかしきゝし
33
事もみな忘れてなんとの給へど。きんとりよせ
て。いとつきなく成にたりや。しるべする物のねに
つけてなん思ひいでらるべかりけるとて。びわめし
てまらうどにそゝのがし給ふ。とりてしらべ給ふ。
さらにほのかにきゝ侍しおなじ物とも思ふ
給へられざりけり。御ことのひゞきからにやとぞ
思ふ給へしがとて。心とけてもかきたて給はず。
いであなさがなや。しか御みゝとまるばかりのて
などはいづくよりかはこゝまではつたはりこん。あ
るまじき御事なりとて。きんかきならし給
へるいとあはれに心すごし。かたへはみねの松風
のもてはやすなるべし。いとたど/\しげに
おぼめき給て心ばへある。て(手)ひとつばかりにてや
め給ひつ。このわたりにおぼえなくており/\ほの
めくさうのことのねこそ心えたるにやときく
おり侍れど。心とゞめてなどもあらでひさしう
成にけりや。心にまかせてをの/\かきならすべ
かめるは川なみばかりやうちあはすらん。ろなう物
のようにすばかりのはうしなどもとまらじと
なん。おぼえ侍とてかきならし給へど。あなたに
聞え給へど思ひよらざりしひとり。ことを聞給
けんだにある物を。いとかたわならんとひきいり
34
つゝ。みなきゝ給はずたび/\そゝのがし聞え
給へと。とかく聞く絵すまひてやみ給ひぬめれば。い
と口おしうおぼゆ。其ついでにもかくあやしう
よづかぬ思ひやりにてすぐすありさまどもの
思ひのほかなる事などはづかしうおぼいたり。
人わざにいかでしらせじとはぐゝみすぐせど。けふ
あすともしらぬ身ののこりずくなさに。さすがに
ゆくすえとをき人はおちあぶれて。さすらへん
こと。これのみこそげに世をはなれんきはのほ
だしなりけれ。とうちかたらひ給へば。心ぐるし
う見たてまつり給。わざとの御うしろみ(お世話)だち
はか/\゛しきすぢに侍らずとも。うと/\゛しか
らずおぼしめされんとなん思給ふる。しばしもな
がらへ侍らん命のほどは。ひとこともかくうちいでき
こえさせてんさまをたがへ侍まじくなんなど
申給へば。いとうれしき事とおぼしの給ふ。さて
あかつきかたの宮の御おこなひし給ほどに。かの
お(老)い人めしいでゝあひ給へり。姫君の御うしろ
みにてさふらはせ給。辨の君とぞいひける。とし
は六十(むつぢ)にすこしたらぬほどなれど。みやびかに
ゆへあるけはひしてものなど聞ゆ故権大納言
のきみの世とゝもにものを思ひつゝ。やまひづ
35
きはかなく成給にしありさまを聞え出
てなくことかぎりなし。げによその人のうへと
きかんだにあはれなるべきふることゞもを。まし
て年ごろおぼつかなくゆかしういかなりけんこ
とのはじめにかとおほけにもこもことをさだか
にしらせ給へとねんじつるしるしにや。かく夢
のやうに哀なるむかしがたりをおぼえぬつ
いでに聞つけつらんとおぼすに。なみだとゞめがた
かりけり。さてもかくその世の心しりたる人も
のこり給へりけるをめづらかにもはづかしうも
おぼゆる事のすぢに猶かくいひつたふるたぐ
ひ(類)や又もあらん。年頃かけても聞をよばさりけ
るとの給へば。小侍従と弁とはなちて又しる人
侍らじ。ひとことにても又こと人にうちまねび侍
らず。かく物はかなく数ならぬ身のほどに侍れど。
よるひるかの御かげにつきたてまつりて侍し
かば。をのづから物のけしきをもみたてまつり
そめしに。御心よりあまりておぼしける時々。
たゞふたりのなかになんたまさかの御せうそこ
のかよひも侍し。かたはらいたければくはしくき
こえさせず。今はのとぢめになり給て。いさゝか
の給ひをくことの侍しを。かゝる身にはをき所な
36
くいぶかしく思ひ給へわたりつゝ。いかにしてかはき
こしめしつたふべきこと。はか/\しからぬねんず
のついでにも思給へつるを。ほとけは世におはしまし
けりとなん思ふ給へしりぬる。御覧せさすべき物
も侍り。今はなにかはや(焼)きもすて侍なん。かく朝
夕のき(消)えをしらぬ身の。打すてはべりなばおち
ちるやうもこそといとうしろめたく思給ふれど。
此宮わたりにも時々ほのめかせ給ふをまちいで
奉りてしかば。すこしたのもしくかゝるおり
もやとねんじ侍つるとて。ちからいでまうでき
てなん。さらに是は此世のことに侍らじとなく/\
こまるにむまれ給ける程のこともよくおぼえつゝ
きこゆ。むなしうなり給ひしさはぎに。はゝに
侍し人はやがてやまひづきて程もへずかくれ侍
にしかば。いとゞ思ふ給へし程に。とし頃よらぬ
人の心をつけたりけるが。人をばかりこちて。にし
のうみのはてまでとりもてまかりにしかば。京
のことさへあとたえて。その人もかしこてうせ
侍にしのち。十とせあまりにてなんあらぬ世の
心ちしてまかりのぼりたりしを。このみやはちゝ
かたにつけてわらはよりまいりかよふゆへ侍し
37
かば。今はかうまじらふべきさまにも侍らぬを。冷
泉院の女御どのゝ御かたなどこそは。むかし聞な
れたてまつりしわたりにてまいりよるべくへば
らで。み山かくれのくち木になりにて侍なり。小
侍従はいつかうせ給にけん。そのかみのわかざかり
と見侍し人は。かずすくなkなり侍にける。す
えの世におほくの人にをくるゝ命を。かなしく
思給へてこそ。さすがにめぐらひ侍れなど聞ゆる
程に。れいの明はてぬ。よしさらばこのむかし
物語はつきすべうなんあらぬ。又人きかぬ心やす
きところにて聞えん。侍従といひしひとは。ほのか
におぼゆるは。いつゝむつばかりなりしほどにや。には
かにむねをやみてうせわきとなんきく。かゝるた
いめんなくは。つみおもき身にてすきぬべかりけるこ
となどの給。さゝやかにをしまきあはせたるほ
ぐ(反故)どものかび(黴)くさきを。ふくろにいれたるとりい
でゝたてまつる。おまへにてうしなはせ給へ。われな
をいくべくもあらずなりにたりとの給はせて。こ
の御ふみをとりあつめて給はせたりしかば。小
侍従に又あひ見侍らんついでに。さだかにつたげま
つらせんと思給へしを。やがてわかれ侍にしも。わた
38
くしごとにはあらず。かなしうなん思ふ給ふるとき
こゆ。つれなくてこれはかくい給つ。かやうのふるひと
はとはずがたりにや。あやしきことのためしにいひ
いづらんとくるしくおぼせと。返/\もちらさぬ
よしをちかひつる。さもやとまた思ひみだれ給ふ
御かゆこはいひ(強飯)などまいり給ふ。きのふはいとまの日な
りしを。けふはうちの御ものいみもあきぬらん。院
の女一宮なやみ給御とふらひにかならずまいるべ
ければ。かた/\゛いとまなく侍を。又このごろすぐし
て山の紅葉ちらぬさきにまいるべきよし聞え給ふ。
かくしば/\たちよらせ給ふひかりに。やまのかげ
もすこし物あきらむる心ちしてなんなどよ
ろこび聞え給ふ。かへり給ひてまづ此ふくろを見
たまへば。から(唐)のふせんれう(浮線綾)をぬ(縫)いて。上といふもじ
をうへんかきたり。ほそ(細)きくみ(組)してくちのかた
をゆひたるに。かの御な(名)のふう(封)つきたり。あ(開)くる
もおそろしうおぼえ給。色々のかみにてたまさか
にかよひける御ふみの返事いつゝむつっぞある。さては
かの御手にて。やまひはおもくかぎりになりにた
るに。又ほのかにも聞えんことかたく成ぬるを。ゆか
しう思ふ事はそひにたり。御かたちもかはりて
おはしますらんが。さま/\゛かなしき事をみちの
39
くにがみ五六まいにつぶ/\とあやしきとりの
あとのやうにかきて
(柏木)めのまへにこの世をそむく君よりもよそにわか
るゝ玉ぞかなしき又はしにめづらしく聞侍る
ふたばのほども。うしろめたう思ふ給ふるかた
はなけれど
(柏木)命あらばそれとも見まし人しれぬいはねにと
めし松のおひすえかきさしたるやうにいとみだ
りがはしくて。侍従の君にとうへにはかきつけたり。
しみといふむしのすみかになりて。ふるめいたる
かびくさゝながらあとはきえず。たゞいまかきた
らんにもたがはぬことのはどものこま/\゛とさだ
かなるを見給ふに。げにおちちりたらましよと
うしろめついとおしき事どもなり。かゝる事
世に又あらんやと。心ひとつにいとゞものおもはしさ
そひて。うちへ参らんとおぼしつるもいでた(立)ゝれ
ず。宮のおまへに参り給へれば。いとなに心もなく
わかやかなるさまし給て。経よみ給ふを。はぢ
らひてもてかくし給へり。何かはしりにけりと
もしられたてまつらんなど。心にこめてよろづに
おもひい給へり